大久保利通 坂本龍馬達が集まっていた瀬戸内の島

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江戸時代に潮待ち港として栄えた  瀬戸内海 大崎下島の御手洗地区。
私はゴールデンウィークに訪れましたが、その後調べたら幕末の志士が集まっていました❗️


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 【大崎下島 御手洗地区】

江戸時代 参勤交代で寄港する九州四国の諸大名は、御手洗に「船宿」を指定するようになりました。船宿は水や薪などの供給、船乗りの宿泊の他、積み荷の取り引きや藩との連絡の取次ぎも行っていました。
今でも、薩摩藩の船宿「脇屋」などが現存しています。
また、幕末に軍備の洋式化を図った広島藩は、薩摩藩から10万両を借りて軍艦「震天丸」を購入しました。その返済に米・銅・鉄・等を渡すため、「御手洗交易」と呼ばれる薩摩藩と広島藩の密貿易が、文久2年(1863)から密かに御手洗で行われました。
やがて、広島藩は、長州藩とも結びつきを深めます。

以下は 御手洗の隣り、大長出身の志士で維新後96歳まで生きた新谷(にいや)道太郎からの聞き書き「維新秘話 志士の遺言書」によるものです。

1867年 龍馬が京都で暗殺される直前 大久保利通、木戸孝允 坂本龍馬たち  薩摩、長州、土佐、芸州(広島)の志士十数人が新谷邸に集まって、四藩連合の軍事同盟を結んだとあります。

密議の参列者としては

芸州(広島)藩からは池田徳太郎、加藤嘉一、高橋大義、船越洋之助、星野文平、そして新谷道太郎の6人。

薩摩からは大久保一蔵(利通)、大山格之助、山田市之丞の3人。
長州からは桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介(有朋)の3人。
土佐からは坂本龍馬、後藤象二郎の2人、でした。

1867年11月9日(慶應3年 10月14日)に徳川慶喜は大政奉還をして政権を朝廷へ返したが、大きな変化はありませんでした。そこで、この四藩が連合し、兵力を用いて改革を進めるよう 倒幕の密議が3日間にわたって練られたと書かれております。
その後龍馬は、12月10日(慶應3年11月15日)に京都にて33歳で暗殺されました。


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【大崎下島 御手洗地区】

 一方で、別の資料によると、薩摩 長州 広島の三藩同盟が結ばれた とあります。

 三藩同盟だったのか四藩同盟だったのかは、わかりません。

いずれにせよこの同盟が、鳥羽伏見の戦いにつながりました。
その後、広島藩は 慶応4年(1868)1月に起きた「鳥羽伏見の戦い」を薩摩の独断専行と断じ、兵を動かさなかったことから、最後の最後で新政府の中枢から外れることになります。

 

幕末は、志士達が薩摩や長州 土佐から大阪、京都へと瀬戸内海を行き来したようです。

御手洗地区の現在は、高齢の方がみかんを育てている静かな地域です。

150年前に思いを馳せながら、このとびしま海道 御手洗地区を散策してみることをお薦めします。

#坂本龍馬  #大久保利通  #とびしま海道  #御手洗  幕末   薩摩藩

 

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