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大内義隆について
大内義隆公は戦国時代の武将です。(1507年 - 1551年)
大内氏は室町幕府に信任されて、周防、長門、石見、筑前、豊前、和泉、紀伊の七州を統御する守護大名となりました。
戦乱で荒れた京都から多くの公家が大内氏を頼って山口に移ってきて、西の京と言われました。義隆の時代には大内文化が花開き、領土も全盛期を誇りました。
大内氏は、束帯姿で牛車に乗るなどしていました。
大内義隆は文学や学問を好み、明や朝鮮と交易をしました。
一方、諸外国にも目をむけて、山口県においてのザビエルのキリスト教布教も許可しました。
大内義隆の最期
栄華を誇った大内義隆でしたが、重臣 陶隆房(すえたかふさ)の突然の謀反により山口を追われました。
文治政治へ傾倒した事が家臣の反発を招いたようです。
そして長門市の大寧時に逃れ、臣下と共に自刃!
1551年9月1日のことです。享年45才
こうして大内家は終わりました。
彼らの墓は、大寧寺の裏山にあります。
兜を掛けた岩 と 姿を映そうとした池
義隆は境内に入る前に、乱れた髪を整えようと参道わきの岩にかぶとを掛けました。
かぶと掛けの岩
そしてそばの池に顔を映そうとしましたが、水面に自分の姿が映りませんでした。
姿見の池
こうして自分の 運命を感じた義隆は大寧時の本堂に入り、清く自刃したのです。
なんだか、体温が下がる話ですね。
「かぶと掛けの岩」と「姿見の池」は、大寧時境内に移されて現存しています。
姿見の池 にて
私もおそるそる池に自分の姿を映してみました。。。。。
映りました。
やれやれ、ひと安心
そこへ、ガイドさんが団体旅行のお客様を連れてやってきました。
「この池は、映ったりうつらなかったりするんですよ~。」
と説明していました。
その説明でいいのかな?
その後私は大内義隆と臣下の墓には行きませんでした。
悲しい場所です。
耐えられそうにありません。
静かな大寧時
山口県長門市深川湯本にある曹洞宗の寺院です。
一面に生えている苔の絨毯がきれいです。
池には悠々と大きな鯉が泳いでいました。
11月5日現在
もみじはまだほとんど色づいていませんでした。
大寧時で戦国時代へ思いをめぐらした後は、近くにある長門湯本温泉(徒歩10分程)でほっこりするのをおススメします。
大寧時 御朱印
御朱印はこちら
以前いただいたものです。